時間は、質量によって流れる速度が違うのだといいます。

山頂と地上では、質量のある地上の方が、時間が遅くすぎていくのだそうです。

アインシュタインの相対性理論が予言する、一つの現象といわれています。

人間には知覚できないほどの差ですが、カレンダーや時計などの道具に示される数字は、あくまで人間が生活しやすいよう定めたもので、”もの”が持つ時間とは、齟齬があります。

時刻通りに来る電車、昼休みに鳴るチャイム、予告通りにはじまるテレビ放送、せまる締め切り、大事な人との待ち合わせ、いつのまにか増えている年の数……全部これは、人間が生活しやすいように定めた時間の中の出来事です。

 そんな中にいると、”時間がない”という感覚にとらわれます。私は、学生の時、よく「時間がない」という言葉を使っていました。

テスト勉強、授業の予習。自分も周りも、ぐるぐる回っていて、まるでメリーゴーランドのよう。

「時間は平等である」と、学校の先生たちはよく言いました。「その時間をどのように有効に使うか、君たちは考えなければいけない」と。

ですが、これが、”時間の考え方”のうちの一つであると気づくのは、何年か経った後でした。

時間は質量によって流れ方が違う、と先ほど述べました。

とすると、いま見えている景色は、”平等に流れた時間の景色”ではなく、”別々の時間が重なった現在一点”なのではないか。

そうなると、その中での有効な時間の使い方とは、もちろん、多岐にわたるのではないか。

電車や、課題に間に合うか。なん歳までに、将来をどうするか。

これは、”数字の時間が支配した世界”での危機ですが、”もの”が所有する時間の中では、”ただエネルギーを消費していく(人間でいうと、老いていく)”それだけで、「間に合う」という言葉は存在しない。あるのは、だんだんと消滅に向かう体、それだけなのだと思います。

体のエネルギーが徐々に消えていく。

それぞれが別々の時間を生きながらも、必ず出くわす、”死”

それが訪れる前に、自分たちのやりたいことは、なんなのか。

『アベドの物語』の登場者たちは、そんな思いを持ちながら生きています(やっと物語の題名を言えました!)。

彼らは、国を統治している光の民と影の人が定める”自分”を生きています。

他者に定められた道を、 彼らが、どう歩んでいくか。

2023年、第一巻〈エイネー〉より、どうぞご覧いただけたらと思います。

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