そこには、円を描く広場がある。

広場の周りを、十のドアがぐるりと囲む。

ドアの向こうには、住人がいる。

【目次】

1. 部屋 

 赤いドアが一つある—

 遠く離れた向かいの部屋、そこでは、黄色い毛布にくるまって—

 そこから二つ離れた黒の部屋— 

 緑は、手を頭の後ろに組み—

 白い部屋というのは、空間に広がりをもたせ—

1 部屋

 赤いドアが一つある。そのドアの先には、一人の男が住んでいた。

 男は、赤いカーペットの上で、じっと頭を抱えてうずくまっていた。足を山のように折り曲げ、その上に額をくっつけている。

彼の顔は、大きな両手で覆われている。

 彼は、闇を見ていた。瞼の裏の、掴めぬ闇。ずっと見ている間に、闇はわずかに変化していく。

最初にすべらかな緑。その両端から、明るい紫が忍び足でやって来る。

緑の時代はつかの間に終わる。だが、やがては紫も遠くに沈み、再び緑が舞台に戻ってくる。

緑も紫も、どちらも消極的だ。入れ代わり立ち代わり、すぐに奥へと去ってしまう。

誰もいなくなった空っぽの空間。いま見えているのは、ざらついた粒状の紫。紫の粒は、わけない顔して、暗闇全土に広がってゆく。

 男は、腹と背とに寒さを感じていた。肌が出ているのだ。

けれど、それを直すために手が動くことはなかった。彼の手は、顔を覆うことで忙しかった。

 男は、この部屋のカーペットと同様、真っ赤なTシャツと、真っ赤なスウェットズボン、といういでたちだった。

ズボンの裾からは、蠟でできているかのような青白い踝が覗いている。

 この男のことを、これからアカイと呼ぶ。

 アカイは、今、非常に気分が悪かった。寒さのせいではない。

 アカイの胸の内には、どうにも気に食わないものが存在していた。例えるならば、それは、具材がドロドロに溶けたスープのようだった。煮立って沸々と泡立ち、全部が全部混ざり合って説明のつかなくなった、そんなスープ。

 アカイは、そんなスープの存在をどうすることもできないでいた。

 アカイの部屋には、特大のベッドと特大のソファがある。どちらも赤い色をしていて、どちらも部屋のほとんどを占領していた。アカイは、その二つの間で、置物のように座っていた。

 アカイは、ふと指に触れた自分の髪のことを思った。しばらく洗っていない髪は、脂ぎって指どおりが悪くなっている。さらには、埃や塵がくっついているせいで、硬く、ざらついてもいた。

 アカイは、今の自分の外見をあまり考えないよう、闇を見続けた。こうなってしまったのも、この胸のスープが原因だった。はじまりは、たしか、黒が訪問して来たときの話で…………。

 思い出しただけで腹が立ち、不快なスープは一気に泡立った。アカイは、吐き気がした。いまだかつて、このような感情に陥ったことなどない。アカイは、どうにかしてこの不快なスープから逃れなければならないと思った。

 しかしながら、ことはそううまくいかない。名もなき気持ちは、主をがんじがらめにして離さず、苦痛を与え続ける。どこにも解決策は見当たらない。

 もう、どうにも手に負えなかった。いったい何が起こっているというのだろうか。アカイはわからなかった。彼は、ただ闇を見続けることに専念した。赤い色を視界に入れないようにした。

 赤。

 これは、アカイが、好きな色だと信じ、自分に似合っていると信じてきた色だった。この色自身が自分自身だと、アカイは強く思ってきた。

お前らしいよ。お前にぴったりだよ。やっぱお前はこうでなきゃな。そうして作った、いまの自分。

 俺は赤のアカイであり、アカイの色は赤なのだ。逆にそうでなければ、俺は何者だというのだろう。部屋のベッドやソファ、カーペット、これらは好んで集めてきた。

…………はずなのに。

 部屋の温度は、先ほどよりも下がったように思える。自分が動かないせいだろうか? 石のような冷たさが、身の内から染みだしてくる。震えが一瞬、アカイの体を駆け抜ける。

こうなれば、着替えなくてはならない。

アカイは、何度目かの気合いを入れた。そう、アカイは何度か試みていたのだ。ちゃんとした服を着ようと、動くことを。

 が、体は今回も拒否するつもりのようだった。

 アカイの体は、泥が詰まっているかのように重い。

 彼の頭の中には、衣装箪笥の中身が浮かんでいた。ずらりと並ぶ、赤のTシャツ。今までは、何の抵抗もなく着ていた、赤のTシャツ。

 だが、それを、アカイの中の何者かが、着ることを拒んでいる。

 アカイは、目の裏の闇を見つめ続けた。溶けて沈んでいってしまいそうな、果てのない闇を。

 俺はどうしてしまったのだろう。

 頭の中で、アカイは呟く。立ち上がって、箪笥をあさり、もっと温かい服を着ればいいのに。なぜ俺は抵抗する? なぜ俺はこのままでいる? なぜ俺は、ぐちゃぐちゃスープをどっかにやれない?

 アカイは、胸の中にある、スープの渦を見つめた。汚い、何色ともわからなくなった、沸き立つスープを。

 やがてそのスープは、泡立ちと共に、何かの言葉を発しはじめた。最初はぶつぶつと、やがて、だんだんと音を大きくして。そうしてはっきりと、アカイに向かって言ったのだった。

「なあ、『赤』は本当に、お前の色か?」

 殴られたような衝撃。

 アカイは驚愕し、ぶるりと震えた。

 アカイの吐き気は、最高潮に達した。

 赤は、俺だ。そうに決まってる。でなかったら、俺は何だというんだ。別の色にでもすればいいというのか。

 だがそしたら、俺は俺でなくなってしまうじゃないか。赤は、俺を強くする。俺を鮮やかにする。俺を他人と区別する。だから、今まで身にまとってきたというのに。

 アカイは、顔を覆う手の力を、ぐっと強めた。

 こんな恐ろしい考えは、速く捨ててしまわないと……。

 でなければ俺は、俺のままでいられない。


 遠く離れた向かいの部屋。

 そこでは、黄色い毛布にくるまって、気だるそうにテレビを眺める女がいた。大きなクッションが山積みになった寝台の上。彼女は、その中に埋もれるようにしてテレビを見ている。

 コマーシャルの音声、アナウンサーの音声、無駄に多い効果音、ひび割れた笑い声。隅に置いてある黄色のオーディオから、ポップミュージックが流れている。音の境は、この部屋には存在しない。テレビの音も、オーディオから流れる曲も、すべて一つに混じって、空間を掻き乱している。

 その中心に、毛布にくるまる女、キイロはいた。

 キイロは、美麗な黄金色の髪を、その手に通し続けていた。肩を包むその髪は、テレビの光を浴びて、なめらかに光り輝く。時折起こる身じろぎで、その髪は肩を這って静かに動いた。

キイロは、毛先をくるくると巻いた。瞳はテレビの画面を見つめたまま。髪には一瞥もくれない。

 彼女の部屋の壁には、キイロと同じような髪を持つ、美しい女のポスターが貼られていた。目と鼻と口、どれも素晴らしく整い、こちらを完璧な角度で振り返る。黒い肩出しドレスは、女の金髪に、より極上さを与えていた。

 そんな女の二の腕あたりに、洒落た文字でサインが印字されていた。大胆で、自身に満ちた筆跡。「ゴールド」と。

 キイロがゴールドのことを知ったのは、キイロがまだ大人とも言えない幼さの混じる少女であった頃だった。

それまで、みんながほれぼれするような何かを持ったことがなかったキイロは、とても平凡で、なんの取り柄もなく、隣の人との違いは何か問われてもまるで見つからぬ、つまらない存在だった。

 だが、ゴールドに出会ってから、キイロは変わったのだった。

最初の出会いは、とあるインタビュー記事。ゴールドは、世界的大女優として、紙面を飾っていた。ゴールドはそこで、紙面越しにキイロに言ったのだった。

「あなたの魅力は、あなたしか持っていない。それは常に、内側で待っているのよ」

 キイロは、その日、心の中で涙を流した。内なる傷と痣が、安堵の悲鳴を上げた。

 自分にも、まだ、誇っていいものがある。

 ……あたし、この人についていこう。

 キイロの中で、何かが強く固まりはじめた。それはやがて、燃える闘志となって、自分改革の源力となった。そして、ゴールドに対する尊敬も、そのとき生まれたのだった。

 優しく、思いやりがあり、献身的で、活発で、美しく、そしてジョークがうまい、ゴールド。素晴らしい女性。こんな人、他にいるだろうか。

 キイロは、花に惹かれるミツバチのように、ゴールドのことを追いかけた。彼女が残していく言葉を、一生懸命拾っていった。

 それから流れた月日の中で、キイロは、どんなに毎日が多忙であろうとも、どんなに不当な扱いをされようとも、決して忘れないことがあった。

ある一つの夢、ゴールドのように、美しく、尊敬される存在になる、ということを。

 お金をかけることについて、キイロは若いうちに、ゴールドからその精神を学んだ。

 ゴールドは、お金についてこう言った。

「お金は悪いものだという考えは、私は納得いかないわ。お金というのは、私たちの活動を促すものだもの。

私たちは、石化しているわけじゃない。日々進化するために、前の自分よりももっとよくなるために、変化し続けなくてはならないの。そのために使うお金は、決して無駄ではないはずよ。

いい投資は、きっと心を健康にしてくれるはずだから」

 よってキイロは、お財布が許す限り、髪、爪、肌、目、さらに服など、自分に必要なものに投資していった。

失敗もあったが、成功して美しくなった自分を見るのは、たしかにゴールドの言った通り、心の健康につながった。

 キイロは、以前よりも確実に美しくなった。魅力的で、それに努力家であることが、周りのみんなから認められはじめた。

キイロは、ようやく日の目を見たような気がして、はじめて生きた心地がした。

このまま続けていけば、もっとよりよくなれる。もっと人の目を引きつけられるようになる。もっと自信をもてるようになる。影にいた頃の自分に、もう戻らなくてすむ……。

 キイロはそう信じていた。

 とある考えを、耳にするまでは。

 キイロはその日、ゴールドが主演を務めた映画のDVDを鑑賞していた。何年か前のだが、ゴールドが出ているのだから、観ないわけがない。

 映画は、醜い少年が美男子になるために異世界へ飛ぶ、という内容で、その美男子役をゴールドが演じていた。

ゴールドは髪を短髪にし、妖麗で掴みどころのない美男子を、みごと魅力的に演じ切っていた。

 視聴後、キイロは、特典映像として収録された、ゴールドと原作作家の対談をだらだらと見ることにした。これは、主演女優がゴールドだからであって、それ以外の特別な理由はなかった。

彼女の仕草、声、表情、考え、それらすべてを、目に、手に入れたかった。

 テレビの向こうで、彼らは映画のテーマである”美しさ”について語っていた。

「例えば、人の魅力とはどこからくるかというのは、コミュニケーションを円滑にするためにおいて、非常に知りたいことだと思うんだ。

本作品の主人公は、それに葛藤して、異世界にまで飛んでいくことになるんだけど……。

ゴールドさんにとって、人を美しくする魅力とは、いったいなんだと思います?」

「そうね。たしかに、美しい髪、美しい肌は、みんなが憧れるものだと思うわ。それによって、相手に好印象を与えられることも事実だし。

けれど、重要なことは、もっと他にあると思うの。

例えば、この作品の主人公は、永遠に美男子になれる石を手に入れるけれど、途中で迷い込む『終わりの森』では、出口を見つけられないのよね。

というのは、美しいだけでは、問題は解決できないということなのよ。もともと、彼は自分の容姿についてかなりネガティブに捉えていたし、周囲の人間もそれを助長していた。彼は、そんな現状を打破するために様々な困難を乗り越えていくことになるわけ。

……で、私はそこに彼の魅力があったと思うのよ。

彼の容姿は、悪事を働いて呪いをかけられた母親の影響によるものだと、後半になって判明するわけだけど、彼は、いろいろ闘い、向き合ってきたすえ、最終的には母親の過去と自分を認めはじめるのよね。

消すのでもなく、否定するのでもない……。

私はね、この点こそ、彼の中枢だと思ったわ。彼が本来持っている、次へ次へと変化してゆく力、真実と正面から向き合おうとする力というのがね」

「外見的な美しさとは、人を引き付ける力が非常に強い。だが内面的な美しさは、どうしても見過ごされがちになる。

なぜなら、見出すために時間が必要になるからね」

「そうね。代わりに、外見だけの魅力は、すぐに色褪せていくわ。確実に。……」

 キイロの呼吸は、浅くなった。

キイロは、そのあとの内容が耳に入ってこなかった。ただゴールドの言った言葉が、ずっとずっと、頭から離れなかった。

 それからというもの、キイロは変わらず美しさを保つことは続けたが、反対に、以前のような確固とした自信と楽しみは、薄らいでいった。

今のあたし、ちゃんと綺麗よね? いい感じよね?

鏡の前に立つたび、向こうのキイロに、キイロは問いかける。

でも、絶対に色褪せていくのよ。

鏡の中のキイロは、硬い表情をして警告する。

色褪せていくとわかっていながら、それでも綺麗でいる理由は何なの? 今だけのため? もし老いたあと、綺麗でなくなったら? 

キイロは、向こうのキイロの目をしかと見る。

そしたら、また元の自分に戻るかもしれないの?

 じわりじわり、その円の中に怯えの色が浮かび上がる。努力してきた自分が、変化した自分が、べりべりと剝がれていく音が聞こえる。今まで目指してきた輝かしい塔が、崩れ去っていく。

 キイロの部屋には、テレビの音が満ち溢れている。粉のように散る下品な笑い声。雑音の集合。壁のゴールドは、微笑みを向け続ける。

 キイロは、必死にテレビを見続けた。音楽を流し続けた。

 今、テレビでは、近日公開する映画の主演男優が、ひょうきんな司会者と対話をしている。

 キイロは、藁にもすがる思いで耳を傾ける。

「……ええ、そうだと思いますよ、ミスターパープル。あなたの意見はごもっともです。世界は、ありとあらゆる誘惑、惰性であふれている。そこで変えなければいけないのは、私自身か、世界か……」

「ああ。それには両方の歯車が必要だと思うね。僕らの意識と、世界の意識。それらは共に変えていかないといけないのではないだろうか。

……だが、そこで変化の強要がはじまってしまうのはよくない。この場合、自らの気づきっていうのが大事だから、他人が『変えよう』と強制するのは違うと思うよ。

だから、ほんとのところ、突き詰めて言ってしまえば、誰が何になろうが、何をしようが、構ったことじゃないんだよ。

例えば、あなたがもし犬ではなく馬と生活したかったら、牧場を経営すればいいし、または、馬の群れに飛び込んでもいいんだ。

仕事が嫌ならその辺に突っ立っていてもいいし、顔が気に食わなければ整形し……ってね。

もちろん、それ相応の結果はついて来るだろうけどさ」

「そうなると…………、殺人はどうなるんですか?」 

(会場の皮肉めいたどよめき)

「いいや、殺人はよくないね! だって、その人の選択を奪っていることになるだろう。選択は奪ってはいけない。

なぜなら、この惰性に満ちた、意味もなく急ぎ、物にあふれ、無駄な贅沢と誘惑ばかりが満ちる世界に”選択”がなかったら、それこそ本当に世界の言いなりになってしまうよ。

生き抜くには、選ぶ力、選択能力がないと。でないと、自分を見失ってしまうのではないだろうか」

「自分を洗う洗濯能力も必要ですよねぇ!」

(会場の笑い声)

「さあ、ミスターパープル、そろそろお時間になってしまったようだ。さて、最後に何か言いたいことがあるんじゃなかったかな?」

「そうだった。僕が主演を務める映画、『惰性の恋人』は本日公開だ。『限定あまあまべっとりシュガーポップコーン』を食べながら、惰性の世界に思う存分浸ってくれ。

もちろん、僕の『特製ミニ人形』を買うこともお忘れなく」

「『ミスターパープルの熱いキッスびりびりホットポップコーン』は?」 

(会場の歓声)

「それは、見るだけで十分味わえるさ」

(会場の悲鳴に近い歓声)

「さあ! 今日公開の映画『惰性の恋人』! ミスターパープルのイケメンショットを見るか見ないかは、あなたの選択ですよ! 

まあ、今テレビを惰性でご覧になっている方々は、きっと見にいくと思いますがね。

今日のゲストは、魅惑たっぷりミスターパープルでした。ではまた来週!」

 陽気ででたらめなエンディングソングが流れる。制作者 の名が列車のごとく走り去っていく。観客の拍手の中、司会者とミスターパープルが笑顔で何か言葉を交わす。

 キイロは、上の空だった。自分の爪に目をやる。

青々と光り輝く、豪奢な爪。このマニキュアも、ゴールドがつけていたものだった。敬愛するゴールド。その力が爪先に宿るだけで、一日の仕事を乗り切ることができる。彼女に一歩でも近づいたような気になる。

その力は、まだ信じていいはずよ。

確かめるように、キイロの目は鏡を向く。

(平気よ。髪は美しい。肌も綺麗。あたしは最高だわ)

 そう言ったすぐあとから、別の声が聞こえる。

本当に? そんなの慰めにすぎないわよ。目のところを見てみなさい。なんて膨れあがってるのかしら。ひどい顔。

ずっと怠けて、テレビばっかり見て。その髪なんて、作り物みたいじゃないの。

ま、そんな髪もいずれ萎びるわ。ほら、頬のあたりに皴ができてるわね。年をとったのよ。いずれ、綺麗な肌も手放すことになるわ。つまり、結局、元の不細工女に……

(うるさい、黙って)

ゴールドが言ってたじゃない。彼女が言ったんだから真実よ。ずっと綺麗でいることは、絶対にできないわ。

 鏡の中のキイロの目に、恐怖の色が浮かび上がる。そうすると、さっきまで信じようとしてきたものが、すべてまやかしに思えてくる。

 青色の爪と、輝く巻き毛。その中にうずまる自分の顔は、目も当てられないほど最低なもの。

瞼はどろりとむくみ、瞳は死んだように濁り、眉はほとんどなく、えらは、あざ笑うように膨らんでいる。

あたしってば、よくこんな顔して生きてこられたわね。

 突然出てきた言葉に、鏡の中のキイロの顔はぐっと歪む。

それがいっそう醜く、キイロは嗚咽を漏らした。

 キイロは、慰めを得ようと、なめらかな髪に触れた。だが、その感触もやがては自分の身から去るものだと気づくと、彼女の手は、ぱっと髪から離れた。

 手の先の青い輝き。顔を縁取る金のきらめき。今までキイロを最大限に引き出していたものたち。

だが、今となっては、キイロを責めているようにしか思えなかった。

お前、せめてもの間、俺たちに合うような顔をしろよな、と。

 キイロは舌打ちをして、毛布にくるまった。

 ここでは何も、見ることはない……。闇は何でも隠してくれる。

 キイロはため息をついた。このまま、永遠にこうしているのもいいかもしれなかった。


 

 そこから二つ離れた、黒の部屋。

黒の部屋には、誰も近づきたがらなかった。

 黒は、実のところ、何をしているのかわからなかった。だが、外出をすることは多いようだ。

彼の部屋は常に鍵が閉まっており、内側には誰もいない。

 黒の部屋は、一つの四角で成り立っていた。入り組んだ間取りは、彼の部屋には存在しない。

箪笥、ベッド、本棚に書斎机。物は少なく、家具も、使っている形跡がほとんど見られなかった。

何もかもぴったりと納まっており、偽物ではないかと疑いたくなるほど清潔だ。

 だが、彼の部屋には何か好ましくない雰囲気が漂っている。

物がなさすぎるせいだろうか? 

それとも、人の気配がしないせい? 

それとも、何か別の理由があるのだろうか。

 彼の部屋は、静まり返っている。


 緑は、手を頭の後ろに組み、足を壁に預けた直角の姿勢のまま、ぼうっと考えごとをしていた。

 目の前にそびえる苔色の壁の、上の方。そこには、横に長い小さな四角い窓があった。

窓からは、かすれた雲の腹がわずかに見えた。

 緑は、この窓のことを嫌っていた。なぜなら、景色の半分も見せてくれないからだ。

他の窓は、ここへ来たときから蜘蛛の巣だらけで、汚くて触っていない。それに、開けたところで、隣の家の壁が見えるだけだった。

 そこで残されたこの小さな窓だが、あんなに上の方にあっては、ただの空しか見えなかった。木や他の家々、道路を散歩する人々、それらがまったく見えやしない。

あの窓からやってくるのは、光だけだった。そんなものだけじゃ、緑は物足りない。

 緑は、変化を見せてくれる窓が欲しかった。そっちの方が、断然楽しいに決まっている。

 緑は、空しか見えない窓を眺めながら、よくよく考えた。

 あの窓のせいで、この部屋は居心地が悪く感じる。はたして、もっとよくするには、これからどうすればいいだろう。

 緑は、何もない苔色の壁をじっと見つめた。じっと見ていると、細かな質感へ目がいく。

砂粒みたいな凹凸、親指大の染み、何かをこすったときにできた傷、よくわからない黒ずみ、覚えのない飛沫。壁には一ミリの隙間もありやしない。砂粒のような凹凸の間には、完全なる結束が見られる。

 緑は、ひどく窮屈な気分になってきた。

 彼は、再び視線を窓に移し、くすんだ青空を見つめた。

 どうせなら、あの窓を開けることができればいいのに。

あの細長い窓には、鍵がない。なぜなら、開けるようにできていないからだ。あれは光を入れるためのもので、緑のご要望とは違って、景色を見せるためのものではなかった。

 だが、緑はそれが気に食わなかった。彼が欲しいのは、開放感であった。変化であった。刺激であった。

 緑は、風が吹き抜ける部屋が欲しかった。小鳥のさえずりが近くで聞こえ、日の光が思う存分に当たり、人々の声がかすかに届く、そんな部屋が。

 それに、緑は一人が嫌いだった。完璧な個室は大の苦手。閉ざされた空間なんてもってのほかだ。

誰かの存在を感じること、外と同じように風が吹き抜けること、自由を感じること。それが緑の大事なことで、かつ、理想であった。

 しかし、現実は違う。

 現実は狭く、どこか息苦しく、寒くて、孤独で、自分ではどうにもならない見えない壁に囲まれている。

 緑は、部屋を囲む壁に視線を移した。

ぐるっと目を回し、四枚の壁と、一枚の天井を見やる。

無言で重圧をかけてくるそののっぺりとした面に、緑は、次第に憤りを感じはじめた。

それは、何度話しをしてもまったく通じない頑固者たちと、ずっと顔を合わせているような気分だった。

 緑は、壁にかけていた足を降ろして起き上がると、胡坐をかいて壁と対峙した。

 そして、何をするかと思えば、おもむろに壁に爪を突き立てた。

三日月型の凹みが一つでき上がる。緑の顔に笑みが浮かぶ。交差させるように、もう一つ傷を作る。

 壁に変化が現れた。わずかな変化だが、三秒前とはまったく違う、確実な変化が。

 傷をつけた緑はそこで、とある計画を思いついた。

緑の顔に、さっきよりも深い笑みが刻まれる。頭の中で計画がどんどん立てられていくにつれて、その笑みはより強くなった。

 緑は考えたのだ。この無味乾燥で、僕を閉じ込めている壁。

これを壊してしまえばいい、と。

 そうすれば、好きなだけ空を見ることができる。大好きな風が、外にいる開放感を常に与えてくれる。

たしかに、寒くなることは確実だし、雨も虫も入ってくるだろうけれど、だからどうした。

きっとその苦労は、僕を変えるだろう。いいにしろ、悪いにしろ。だがとにかく、この牢獄からは抜け出せるのだ。

 緑は、頭の中でそこまで組み立てると、満足し、寝っ転がって、足をまた壁に預けると、目をつむった。

 行動は、休息したあとにやることが肝心だ。ここまで考えただけで、僕はたいそう偉い。


 白い部屋というのは、空間に広がりをもたせ、清潔感を与え、光を美しく見せる。

 そんな白い部屋の二階にて。

 吹き抜けの手すりに寄りかかり、広い一階を物憂げに見下ろすのは、背の高い人物だった。

その人は中性的で、男でも女でもなかった。

 これからシラと呼ぶこの人は、自分が中性的であるということを発見し、自分に告げ、自分を受け入れ、そして、周囲に告げた過去を持っていた。

周囲が受け入れるか受け入れないかはそれぞれだが、シラは、自分を自分で気づけたことに対し、たいへん評価していた。

 シラは、手すりに寄りかかりながら、コーヒーを飲んでいた。ここでこうして休息をするのが、シラはとても好きだった。

 シラの仕事は、文を書くことだった。翻訳、エッセイ、コラム、物語、その他なんでも書いている。

シラは、作業がひと段落すると(または行き詰まると)、ここへ来て、一階を眺めながらコーヒーを飲んだ。

俯瞰することは、シラにとって、物事を整理するのに非常に役に立つことだった。

 今回も、シラは考えごとをまとめるために、ここに立っていた。

部屋は静寂に満ちている。ありとあらゆる角、隙間に、柔らかな静けさが満ち満ちている。

白い壁紙が、いっそう部屋を非現実的なものに見せている。夢か写真か。

画面越しに見る、切り取られた静けさ。シラはその中にいる。 

 ……いるはずだが、なぜか心は、静けさになじめなかった。シラはそれが落ち着かなかった。

静寂は好きなはずなのに。どうしてだろう。シラの胸の内は、部屋とは反対の様子を見せている。小さな虫が羽を震わせて飛び回っているかのように、細かな震えが内を支配している。

 シラは、音楽をかけようと、書斎にあるオーディオのスイッチを入れた。クラシックが流れ、絶妙な音のバランスが、なめらかに空間を駆けてゆく。

 普段なら、この音の流れに身を任せ、それを楽しむのがシラだった。シラは、なんとかその律動を身の内に入れ、わがものとしようとした……………………。

 以前のシラは、自分に臆病だった。何が正解かわからず、周りの目を見て、一挙一動を気にしながら、毎日を過ごしていた。

だが、そこで自分の中でずれを感じ、長い時間をかけて、自分と向き合い、対話してきた。

自分の好みと、他人の好み。自分の望みと、他人の望み。右か左か。赤か青か。選択するか、それとも否か。

その旅は非常に辛く、ときに自分を傷つけながら、けれど、真摯になって自分と歩んできた。

そうしてようやく、本当の自分を知ることができるようになったのだ。それは周りのおかげでもあるし、闘ってきた自分の成果でもあった。

 その経験は、今のシラを輝かせている。シラはその経験を、今の仕事にいかしている。

 ……が、この胸の底に巣食う焦りと虚無は、いったい何なのだろう。

 もしかすると、私はまだ何か望みがあるのだろうか? それとも、他に何かやり残したことがあるのだろうか。いったい何が原因なのだろう。シラは考える。

 シラの耳には、もはや音楽は入っていなかった。シラは、ずっと考える。自分にとって何が満足いかないのか、原因をはっきりさせようと、脳の中を探っていく。

 広く、静かで、落ち着いて、美しい。それが前からの望みだったのに。そんな部屋の中に、自分はいるのに。

(やり切ってしまったのだとしたら?)

 思いがけずやって来たその考えに、シラは、はっとした。

 だが、その先を考えようとすると、暗雲が胸の内にたちこめた。

 シラはさっと首を振った。きっと、まだ充分に楽しめていないだけさ。シラは思う。ようやく仕事が入って来るようになったというのに、ここでもう満足したというのか? まさか、「飽きた」なんて言うんじゃないだろうな。

 いいや、そんなことはない。自分はもっとやれる、やれることはある、ここで終わるとは思えない。達成したとは言い切れない。

 これは、たぶん仕事のしすぎだ、絶対に。

 シラは何度もコーヒーに口をつけ、今のことは忘れようとした。